桜島はよかなあ
葬式で帰京
ドコモ商店街はさびれていますがここは町は広がりきれいに整備されています。
路面電車に青々とした芝が貼ってあるのも美しいです。
来年から、西郷どんがNHKではじまるので、西郷南洲顕彰館にいって、きました。
最後は西南戦争で城山にて自決しておりますが、自分の建てた私学校の生徒が暴走したことが始まりでした。
江戸の無血開城を誠意ある話し合いにより決断した盟友の勝海舟が挽歌を残しています
ぬれぎぬをほさんともせず子供らのなすがままにて果てし君かな
帰路で文庫本を読み人間西郷に会った気がしました。
明治元年に幕府のためによく戦った庄内藩にも寛大に取り計らい,南洲公遺訓を刊行されています。
この場所は桜島がひと際近くに見えます。
お墓詣りと神社にお参り
西郷さんの家紋、中心に12枚の菊の花びらを使うのを遠慮して3枚しか使っていません。
人口70万人で、20万人が武士という多さの中、城郭を分ける甲突川の城側,下加治屋町は70個ほどの家が建つ貧しい屋敷町、その中から多くの偉人がでた。
3人の妻をめとったが最初の妻は26歳の時、伊集院兼善の娘、が、この年祖父、父は歯をあいついで亡くし、弔い費用がかさみ、11人と奉公人の大家族の世話は大変な苦労で、参勤交代で西郷は江戸に行ってしまうし、疲れ果てた娘を見かねて両親は連れ戻し、離婚の申し出をされてしまう。生涯自分のふがいなさを悔やんだらしい。
西郷は4男1女に恵まれる。奄美大島潜伏中であっ愛加那との間の菊次郎,菊子
菊次郎は12歳でアメリカ留学、17歳で西南戦争で片足を無くす。その後、外務省・・・明治37年から京都市長を務めている。
糸子とのあいだには、寅太郎,午次郎、酉三がうまれている。寅太郎もドイツ留学し陸軍省尉、父の候により侯爵を授かり,貴族議員になら理法務大臣を務めている。
午次郎は日本郵船会社に勤務し重役を務める。酉三は肺結核で30歳で亡くなっている
西南戦争の最後の前夜、政府軍は花火をあげたり、海軍軍楽隊の演奏で英気を養い、西郷軍も祝杯を挙げ決別の宴が盛大に開かれたというから驚きだ。
覚悟とねぎらい、人間らしくあたたかい。来年どう描いてくれるか楽しみだ。